八雲は木彫熊の発祥地です

その歴史は昭和60年に発行された、”八雲の木彫熊”から紹介します。
まずはその作品を紹介します。

 今でこそ、北海道の観光地でよく見かける、一見アイヌの民芸品のように思われがちな木彫熊は、実は八雲の風土と農民が生み出した、すばらしい芸術品です。
 その八雲の木彫熊は茂木多喜二、柴崎重行の二人に代表されると言っても過言ではないでしょう。
 写実的な彫刻に繊細な毛並みを特徴とする茂木多喜二に対し、柴崎重行は手斧を使っての素彫りで、両者とも独自の作風と世界を持っています。
 柴崎が芸術的に取り組んで多のに対し、茂木は最後まで商品としての木彫りを続けたのは、興味深いことです。

茂木北雪(多喜治)・作
代表的な作風の毛彫りです。
この作品は晩年最後の作品だったようです。
私の父が所有してます。
柴崎志(重行)・作
これも代表的な作風一刀彫りです。
大胆なカットが彼の特徴です。
この作品は高木寿冀氏所有のものです。





八 雲 の 木 彫 熊
1.木彫熊の発祥
北海道の観光土産品として有名な木彫熊は、熊狩の殿様と呼ばれ、常に農民生活を向上させることに深い関心を寄せていた徳川農場主徳川義親が、八雲町の農民に製作を奨したことに始まります。

 徳川義親は大正10(1821)年〜11(1922)年にかけて、たまたま旧婚旅行でスイスを訪れたとき、木彫りの熊がおみやげ品として売り出されているのを見てふと、冬になると雪にとざされ、仕事のない八雲の農民のことを思い浮かべ、いくらかでも現金収入になればと冬期間の仕事として熊の木彫りを勧めることを思いつき、スイスの木彫熊をいくつか購入してきました。
 

徳川 義親
 翌12(1923)年、徳川義親は購入してきたスイスの木彫りの熊を八雲の人々に貝本として提供し、「とにかく作つてみろ、できたものは私が買いあげるから。」と言って八雲の人々に製作をすすめたのです。

 大正13(1924)年3月、農民生活を向上させるという徳川義親の主旨に沿って、徳川農場では、副業としての農村美術工芸品の製作を目的として、第一回八雲農村美術工芸品評会を八雲小学校において、5日間開催しました。

 この品評会には、竹細工・刺繍・編物品・染色品・自然木細工・粘土細工・木工細工・わら細工など、数多くの工芸品が出品された中に1個の木彫り熊が出品されていました。この木彫熊は、酪農家の伊藤政雄(1884年〜1936年)が、スイスの木彫熊をモデルに製作した彫刻熊で、長さ9.5cm、幅3.6cm、高さ6.3cmの毛彫りの熊でした。この木彫熊が、今日北海道各地で土産品として売られている木彫熊の第一号です。

 徳川義親は、品評会に出品された伊藤政雄の木彫熊を見て「八雲でも熊の彫刻はできる」と考え、伊藤政雄と十倉兼行(1883年〜1943年)を講師にして、徳川農場で講習会を開催しました。講師の十倉兼行は、身体を悪くしたため川合玉堂の塾を出て、八雲で静養中の日本画家で、美術という観点からの良き指導者でした。

 徳川農場で毎年講習会を開催しているうちに、昭和2(1927)年9月2日、秋田県主催の北海道奥羽六県連合副業共進会で、伊藤政雄の木彫熊が「一等賞」を獲得し、八雲の人々は木彫熊製作に自信を持つようになり、木彫熊の製作を一層推し勧めるようになりました。

徳川農場での農民美術講習会
たっているのが講師の十倉兼行(右)と伊藤政雄(中央)

2.八雲農民美術研究会

 大正13(1924)年より農民生活の向上を自的として、農民美術工芸品の奨励のために農民美術工芸品の講習会を開催してきた徳川農場では、副業としての農民美術工芸品の研究と振興を図るために、昭和3(1928)年1月こ八雲農民美術研究会を設立しました。

 この研究会は、徳川義親の農民生活を向上させるという主旨に基づいていましたので、会員は農業を営み、農民美術工芸品の製作を行なう者で、製作する対象は、農閑期に自分の家で製作でき、八雲産としての郷土色をもつ土産品で、室内装飾及び実用を兼ねた芸術的作品を製作することを目的としていました。

しかし、研究会では特別の技術を有する人には入会を許可していましたので、農民以外の会員もかなりおり、製作する工芸品も、ペーパーナイフ・スプーン・フオーク・盆等の色々な作品が製作されましたが、中でも製作の中心となったのはやはり木彫熊でした。
 研究会では、事業として毎月15日に例会を開催し、会員相互の研究発表、作品の批評、会務の報告を行なうと共に会員の親睦を図り、毎月3日ないし5日間共同で作品製作を行ない、作品の向上・統−に努める一方、毎年8月に展覧会の開催を行なっていました。


八雲農民美術研究会の制作状況
(昭和3年頃)

 研究会の指導には、伊藤政雄・十倉兼行が講習会に引き続き行なうと共に、徳川義親にお願いして、徳川農場庭園内に二頭の熊を飼育してもらい、熊の姿態観察を行なうなど努力を行ないました。
 また、この他に昭和7(1932)年に日本農民美術研究所長の山本鼎を招いて、講演と実技指導を受け、翌年8年には北海道林業会から講師として高橋彦作を派遣してもらい、木材塗装法の講習を受けるなど、技術の向上に努め、昭和18(1943)年の研究会が解散するまでに数多くの木彫熊その他工芸品の製作を行ないました。
3.木彫熊の衰退とその後

 昭和3(1928)年に八雲農民美術研究会が発足し、昭和6(1931)年には3,891点、昭和7(1932)年には5,347点もの作品が製作されるようになり、研究会員の中には、木彫熊の製作を専業にする人達も出てくるようになりました。 また、製作された木彫熊も北海道内だけではなく、東京・名古屋・京都・大阪などでも販売されるようになりました。
 しかし、この頃日本を取り巻く世界の情勢は悪化の一途をたどり、日本は戦争への道を歩み始め、昭和16(1941)年についに太平洋戦争が開始されました。これにより、木彫熊を製作しても売れなくなると共に、製作者達も木彫熊を製作する状況ではなくなり、昭和18(1943)年八雲農民美術研究会が解散すると八雲では、茂木多喜治柴崎重行の二人を除いては木彫熊製作が行なわれなくなってしまいました。
 昭和40(1965)年代に入ると、また八雲でも木彫熊に取り組む人があらわれるようになり八雲町教育委員会でも、発祥の地としての伝統を残すため昭和46(1971)年から公民館において木彫熊講座を開催し、発祥の地八雲の木彫熊製作の育成に努めています。

公民館木彫(熊)講座で
制作に励む受講者
(昭和46年頃)

八雲の木彫熊
昭和60年3月30日発行
 発行
八雲町郷土資料館・八雲町教育委員会
   北海道山越郡八雲町末広町154
※原稿は原文のままです。



木彫熊作者と作品
鈴木 吉次     (M31. 6生)
土屋 金三郎    (M31. 7生)
柴崎 重行(号)志 (M38.10生)
岡島  太       (T 4. 1生)
上村 信光(号)信光 (T 9. 8生)
引間 二郎(号)木歩 (T13.12生)

土屋 康之肋(T15. 7生)
加藤 貞夫(号)加藤(S 1.12生)


まだまだいろいろな方の作品がありますが、了承が得られましたら、少しずつアップしていきます。

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